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2026.5.22
日本フィルハーモニー交響楽団と経営学部の共創プログラムの紹介記事『オーケストラから経営を考える 』を掲載しました。
オーケストラから経営を考える
横浜国立大学経営学部×日本フィルハーモニー交響楽団との共創プログラムに向けて
横浜国立大学経営学部と日本フィルハーモニー交響楽団は、音楽実践に内在する知見を、組織や人の成長にどのように接続できるのかを探る共創プログラムの可能性を検討している。本稿は、その理論的・実践的基盤を探る試みとして行われたインタビューの記録である。2026年1月22日に横浜みなとみらいホールで開催されるコンサートを目前に控えた1月20日、杉並公会堂でのリハーサル直後に、ヘーデンボルグ氏へのインタビューを実施した。今回のコンサートでは、同氏は指揮者として全体を率いるだけでなく、第一ヴァイオリンとしても演奏に加わり、本公演の中心人物として演奏を牽引した。
プロフィール

ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク氏は、1977年オーストリア・ザルツブルク生まれのヴァイオリニストであり、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の正団員として世界的に活躍する音楽家である。6歳からヴァイオリンを始め、モーツァルテウム国立音楽大学およびウィーン市立音楽大学でいずれも最高位の成績で修了した後、2001年にウィーン国立歌劇場管弦楽団に入団。2004年よりウィーン・フィルに参加し、ソロや室内楽でも豊富な活動実績を持つ。演奏活動に加え、写真家としての作品発表や、ウィーン国立歌劇場管弦楽団協議会会長として組織運営にも携わるなど、多面的な芸術活動を展開している。
第一奏者経験と責任を引き受けるリーダーシップ
ヘーデンボルグ氏は、自身のリーダーシップや集団観の背景として、多文化的な生育環境に言及する。日本人とスウェーデン人の両親を持ち、オーストリアで育ったという経歴は、単なる国籍の混在ではなく、「どこか一つに完全に属している感覚を持たない」という自己理解を伴っているという。日本語は家庭内で習得したが、日本社会で生活した経験はなく、言語能力と文化的実践を意識的に区別して捉えている点が印象的であった。そうした多様な文化を経験することと、複雑なアイデンティティを有することが、指揮者としての重要な資質である、微弱な情報を読み取る「感度」を育んだという。
大学卒業後、オーケストラ奏者としてのキャリアを出発点としながらも、ソロ、室内楽、さらには指揮に関わる業務まで、複数の役割を並行して担ってきたことが語られた。一つの専門領域に閉じるのではなく、異なる立場を往復することで、音楽全体を俯瞰する視点が培われてきたという。また、2018年以降は、オーケストラの労働者代表として、さらには舞台芸術組織全体を代表する立場を引き受け、演奏家という枠を超えて組織全体を見る経験を積んできた。被雇用者の側から組織を捉えるこの経験は、彼自身にとっても大きな視野の拡張であったと振り返られている。
集団観の基盤には、室内楽の経験がある。家族と行ってきたピアノ・トリオの活動は、各奏者が単なる「ソリストの集合体」ではなく、相互作用の中で音楽を形づくる存在であることを体感する場であったという。その背景には、ウィーンに根付く、家庭で音楽を共有する文化があると語られた。
弦楽四重奏やオーケストラにおける第一ヴァイオリンの役割は、彼にとって明確なリーダーシップ経験として位置づけられている。第一奏者は、演奏技術のみならず、楽曲の構造分析や解釈の方向性、ボウイングの決定など、音楽全体に対する責任を負う立場にある。合議を重ねつつも、最終的に誰かが判断し、責任を引き受ける必要があるという認識は、その後の指揮活動にも連続している。
演奏におけるフロー体験――制御された没頭状態
インタビューでは、組織心理学の観点から「フロー体験」についても話題が及んだ。フローとは、人が高い集中状態に入り、行為そのものに深く没入していると感じる心理状態を指す。
ヘーデンボルグ氏は、演奏中の没入状態そのものを否定しないが、それが自己中心的な状態へ傾いていくことには慎重だ。感情が自分の内側だけに向かいすぎると、聴衆に音楽を届けるという演奏者本来の役割から離れてしまうというのである。
彼にとって演奏者とは、作品と聴衆のあいだに立つ媒介者である。自己を前面に出しすぎても、逆に抑え込みすぎても、音楽は成立しない。重要なのは、没入しながらも同時に全体を見失わず、没入と制御の「あいだ」に立ち続ける感覚だという。
また、作曲家の作品構造を深く理解したうえで、その枠組みの中で自由に表現することの重要性についても語っていた。そこに唯一の正解があるわけではない。しかし最終的には、自分自身がその解釈に責任を持たなければならない。その姿勢は、インタビュー全体を通して一貫していた。
おわりに:音楽実践から経営を考える
オーケストラは、高度な専門性を持つ個人が集まり、瞬間ごとに全体としての成果を求められる集団である。そこでは、個々の自由な判断と役割意識、全体への責任感が同時に求められる。
今回のヘーデンボルグ氏へのインタビューからも、そうした集団の成り立ちは、単なる演奏技術だけでは支えられていないことが見えてきた。多文化的な背景の中で培われた感覚、室内楽を通じて形成された相互作用への意識、そして第一奏者や労働者代表として積み重ねてきた責任経験が、現在の指揮やリーダーシップ観へとつながっている。
横浜国立大学経営学部と日本フィルハーモニー交響楽団が進める共創プログラムの試みは、こうした音楽実践の中に蓄積された知を、ビジネスや組織の現場へと読み替えることを目指している。舞台上で響く音の背後にある思考や関係性に目を向けることは、専門性の異なる人々が協働する私たち自身の社会や組織を見つめ直すヒントを与えてくれるだろう。